エヴァンゲリオンとエウレカセブン [鑑賞記録]
TVアニメ版を両方見た。
どちらも結構最近のことなのでいまさら感がかなりあるのだけれど、せっかくなのでエントリー。
どちらもいわゆるセカイ系に分類される内容。どちらもなかなか見ごたえがあったので比較しつつ考えてみたい。
まずはエヴァンゲリオン。
見た感想を率直に言うとすれば、曖昧にすることで何かすごいことを描いている感を出していて、しかしながら製作者の見解が示されているわけではないというずるい演出がされているというところ。
それによって商業的には大成功したわけだし。
とはいいつつも、登場人物の心理を丁寧に描写したという点ではおそらくそれまでのアニメにはなかったのだろうし、現代の(当時の)若者に受け入れられやすい内容だったと思う。
見て真っ先に思い出したのがヘミングウェイの「日はまた昇る」。内容が似ているとかそういうことはないのだけれど、第一次戦後のアメリカの「失われた世代」と呼ばれた若者の心理を描き絶大な支持を受けたという点ではエヴァもそうなのかな、と。
バブルとそれが崩壊してからの失われた10年に多感な時期を過ごして、確固たる価値観なんてない、そんな価値観が浸透しつつある時代に生きてきた僕らのちょっと先輩の年代の人たちに受け入れられたっていう意味で。
続いてエウレカセブン。
一人の少年がゲッコーステイトでの戦闘を通して
見たあとで少し調べると、エヴァンゲリオンの影響があまりにすごすぎてエヴァを超えるアニメが出てこない時期っていうのが一時期あって、そんなときに打倒エヴァをスローガンに作られたアニメだったらしい。ただしソースは怪しい。
見終わった後に「あれ?これエヴァじゃね?」って思った。だからこの記事のタイトルがエヴァンゲリオンとエウレカセブンなわけだけれど。
同じに思える一番の原因はエヴァの「人類補完計画」とエウレカの「アゲハ構想」が酷似しているから。ものすごいざっくり言ってしまえば、お互い分かり合うために一体化しよう、っていう話。
ただ、エヴァにおいて使徒と人はもともとは同じ生物だったけど、エウレカではコーラリアンと人はあくまで別物っていうところは違う。
エヴァとエウレカ
エヴァとエウレカは似ている!っていうのはいろんなところをで言われているみたい。ま、普通に見ればそう思うのも仕方ない。
しかし似ているだけではなく、エウレカはエヴァを超えられなかったなんて言われている。
お話として、どちらが良くまとまっているのかって見ると確実にエウレカだと思う。見ていてすっきり感がある。49、50話(最終話)はもうちょっと何とかできたんじゃないかとも思うけれど、エヴァを見終わった後の「へ?」って感じからすればずっといい。
でも、よくよく考えて見ると、確かにエヴァはいろんな伏線を回収せずに終わってしまったんだけれど、シンジの「誰もわかってくれない」っていう孤独に対して人類補完計画が答えになっていて、それでもエヴァに乗ってさまざまな経験をしたシンジが最後に選択を迫られたときに「分かり合えなくてもみんな違ってみんないいという」っていう計画に対する拒否をした、っていうのがシンジの成長だっていう点ではエヴァはまとまっている。まとまっているというよりは展開がきれいって言ったほうがいいのかもしれないけれど。
エウレカでは、人間代表のレントンとコーラリアン代表のエウレカはそもそも分かり合うことができていて、セカイのあり様とレントンの成長は別軸にある感じがして(まるでスポーツを通して選手の精神的な成長を描いているような)、そういう意味ではエウレカは厳密にはセカイ系ではないのかもしれない。
僕がエウレカがエヴァを超えられなかったポイントはアニメとしてまとめることに労力を費やしてしまって、ストーリーを深化させられなかったところかな。
とまーいろいろ書いたけど、どっちも好き。
やっぱSFって夢があっていいよね。
審判 [鑑賞記録]
カフカ。辻ひかる訳。
カフカを読むのはこれが初めて。いままでどれだけ本を読んでこなかったのかって話だけど。
おそらく変身とかの方が有名だとは思うんだけど、あえてちょっと違うものをと思って『審判』を読んでみた。
全体的に暗い雰囲気が漂っていて、読みやすいかと言われると決してそうではなかった。
しかし、各章が一つの夢のようになっていて、話の確信には降れずにその周辺に起きたことを様々に描いていく書き方は、読めば読むほど世界観・設定が明らかになっていくので、クセになるとグッと引き込まれる。
相当に訳が分からなかったわけだが、思うところはあるのでエントリーしておこう。
以下、ネタバレを含むので閲覧注意。
秘密結社 鷹の爪 [鑑賞記録]
カウントダウンが始まってから見ているだけで、古いものを見たわけではないけど、おもしろい。
こういうチープで緩い感じの作品もいいなぁーって。深夜に見たら爆笑必至。
動きが少ないと思ったら、フラッシュで作られてるみたい。
劇場版も3作品目が製作されているところらしいので、公開されたら見に行ってみようかなぁー。
悪の組織に所属しながらも、島根県のキャラクターになっている吉田くん、素敵すぎる。
トリックアート美術館 [鑑賞記録]
中学時代の先輩が研究で筑波に来ていて、トリックアート美術館に行きたい、と声をかけてくれたので、一緒に行ってきた。
外観からしてかなり遊び心がみられるこの美術館。美術館というちょっと堅苦しそうなイメージとはまるで違っていて、遊べる美術館といったかんじ。
中はフラッシュを使用して写真撮影することがゆるされているということで、いろいろと写真をとって遊んできた。
地面や壁に絵が描かれていて、その絵にうまく合わせてポージングすれば合成写真のようにおもしろい写真が撮れる。絵の完成度が思った以上に高くてとても楽しめた。
例えば入ってすぐの場所で撮ったこの写真
お金が落ちてる!!
と誰しも目を疑ってしまうけれど、実はこれは絵。
床に書かれた絵のお札は拾えない。
ほかにも、壁に描いてあるだけで実際には登れない階段や、3つの扉のうちひとつだけがほんものだったりと、細かく作り込まれていて、大人でも十分騙される。
自分も扉をあけようとしたら取っ手が絵でビックリしたり笑。
トリックアートは人間の視覚の特性をうまく逆手にとって作ってあるので、ふとした瞬間に騙される。
1時間半くらいで見て回れて、大人の入館料1300円分は十分に楽しめたと思う。
箱根山口から徒歩2分くらい。おすすめ。
デミアン [鑑賞記録]
ヘルマンヘッセ著。
やっと読み終わった。
前半は『車輪の下』にも見られるような叙情的な文章で読みやすいが、後半部分はヘッセが自身と真剣に向き合った結果がさらけ出されていて、多少読みづらい。
というか内容的に読むのが辛いと言ったほうがいいのかもしれない。
--作品について--
戦時中のドイツにおいて、当初は匿名で発表されたというこの作品。
ヘッセの渾身の一作であると同時に、当時のドイツの若者に大きな衝撃を与えた問題作でもある。
ヘッセの作品はこの『デミアン』を境に、自己探求へと深く堀下がっていくことになるのだが、まだ読んだ作品数が足らないので言及は避ける。
--あらすじ--
主人公のシンクレールは、明るく正しい父母の世界と、そうではない、暗く邪悪な世界とのギャップに悩んでいた。
そんなシンクレールが、その狭間をさまよいながらも、真の自己を築くことこそが自身の人生なのだということを確信するまでの過程が描かれている。
--真の自我を求めて--
自分の悪い面を認めることができずに、無意識に否定してしまう、なんていうのは良くある話だとおもうけど、そんな自分も自分自身なんだ、っていうことを認めないことには、何も始まらない。
今現在の自分を受け止めた上で、かくありたい自分であるためにどうしていくべきかを考え、一心に追求することができれば、身分も職業も関係なく、それが自己実現なのだ。
そういうメッセージなんだと理解した。
--感想--
僕は教育、さらに広くは社会にとっての一番大事な課題は、どれだけ多くの人々が自己実現を達成させられるかにかかっていると思っている。けれど、この自己実現というのが非常に曖昧で、しかも現代においてはその価値観がとても流動的になっているので、一人一人の人間自身ですら自分がどうしたいのか本当に分かっている人なんていないのではないかというくらいだ。でもきっと自己実現っていうのは実現したい自己を求め続けることなのではないかと思う。
ヘッセも「どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった」と書いているし、「しかし、めいめい自分自身になろうとつとめている。ある人はもうろうと、ある人はより明るく。めいめい力に応じて」と書いている。
僕自身も未だに自分がどうしたいのか分からないことが日常の中でたくさんある。
「かくありたい自分」を探すとともに、そんな自分になるためにできる努力を日々の生活の中でしていかないとなぁ。
ただ、気になったのは、そうやって自己実現への営みに入ることができるのは、「カインのしるし」を持つ覚醒者のみであるという点。
これはある種キリスト教的な発想なのかな?とは思ったけど、本来自己実現への道は誰しもが歩むものであって、一部の「知る人」だけが到達することのできるような境地ではないはずである。
もちろん、シンクレール自体、特別秀でた人物であったわけでもないので、誰しもがシンクレールである、という解釈も可能ではあるが、作品の意図がそうであるとは読みづらい。
--最後に--
「これは!」と思った言葉を。
シンクレールにとって2人目の指導者、ピストーリウスの言葉
「きみを飛ばせる飛躍は、だれでもが持っているわれわれ人類の大きな財産なのだ。それはあらゆる力の根とつながっている気持ちなのだが、いざとなると皆不安になるのだ。ひどく危険だからね!そこでたいていのものはいっそ飛ぶことを断念して、法規に従い歩道をあるくことにするのさ。」
苦労を恐れて無難な方へと流れる気持ちをこの様に言い表してくれるとは。。と思った。
ではでは宿題のスライド作りに戻りませう。
グランツーリスモ for PSP [鑑賞記録]
10月1日発売のグランツーリスモ。
もはや出ないのではないかとまで言われたグランツーリスモがようやく発売された。
早速買ってみてプレイ。
ロード時間も長すぎるということはなく、操作感もいい感じ。
やることとしては
1.ミッションをクリア
2.各コースのランクをSにするのを目指す&車を集める
っていう感じで、得にクリアする目標があるっていうわけではないので、グランツーリスモが大好き!っていう人はいいけど、初心者が単純にゲームとして楽しめるかというとそうでもないかなーと。
残念だったのは、wifiで対戦ができないということ。
アドホックパーティがあるじゃないかということなのだろうけれど、PSPとWLAN環境さえあれば離れた人と対戦できるっていうのがあれば良かったなー。
まぁ、買ったところでどうせやる時間はほとんどないんだけど。
12月下旬に出るという噂のGT5にも期待。
日はまた昇る [鑑賞記録]
アーネスト ヘミングウェイ。
ページ数の割にはあっという間に読めた。やはり小説だったからだろうか。
第一次世界対戦後、祖国アメリカを放棄してパリへ移り、その日その日を生きていた若者の物語である。妙にリアリティがあるなぁと思ったら、やはりヘミングウェイが実際に体験したことを題材にしてかかれたいわゆるモデル小説であるらしい。
中盤あたりまでは、どうしてこの作品が不朽の名作として現代に至ってもなお読みつがれているのだろうかと思っていたのだが、後半になっていくにしたがって、それが分かっていく。
淡々と繰り出されていく描写や会話が、非常に繊細な人間の内面を明らかにしていくのだ。ジェイクとブレットの、互いに愛し合っているのに、距離を置こうとし続けるところや、ブレットとロメロの絡みなども、とてもリアリティがある。
作中での若者は”lost generation”、失われた世代という扱いをされている。
ヘミングウェイは戦争を経験して自堕落になった若者達の代弁者であり、それがこれからの若者達の方向性であることを見抜いていた。
だからこそ、「日はまた昇る」は名作と言われるのである。
人生論 [鑑賞記録]
トルストイはこれまでは戦争と平和を読みかけて途中で挫折しただけだったので、リベンジしようと人生論を読んでみた。
ロシア文学は・・・読みにくかったなぁ。というか難解な言葉が多すぎる。
思いのほか時間がかかってしまったなぁ。
テーマとしては、(これはあとがきでも触れられていることではあるが、)人生というよりは生命と言った方が適切だと思う。内容はかなりぶっ飛んではいるけど、ついつい宗教的になりがちな生命についての言及をあくまで哲学的立場から科学的に書く努力が見られる。トルストイが自分や、その他の生命の有り様について、思索した結果が書いてある。人類が幸福になるための唯一の方法は愛であると結論づけられている。
トルストイの思想が集約されていると言っても良い作品。作品というよりは論文。
この本の短評では、「人間が真の幸福になるには利己を断ち切って人類愛の立場に立つ必要があることを説いている」というものを見たが、自分が読んだ感じでは、この作品においてもっとも重要な点はそこではない。
もっとも抑えておかなければならないのは、人間の生命において、理性と本能(=動物的個我)は対立して考えるものではなく、理性が本能を従属させることによってのみ、人間の生命が幸福になる可能性が生まれると強く主張している点である。
そのうえで、利己による社会の安定というものがたくさんの矛盾を抱えていることを指摘し、その打開として利己を越えた人類愛へと論理が展開されていくのである。
自分の欲を捨てるというある種仏教的(という表現は語弊があるので本来使いたくはないけれども)な観念では決してないということをトルストイ自身も言っている。
書かれていること自体がかなり極論的で、なおかつ神を軽んじるような表現がたまに見られるので、きっと初めはずいぶんと批判されたに違いないと思うが、100年ほどが経った現代においてもまだこの文章は社会に対して光を放ちつづけている。
こういう本は正しいとかそういうのは別として、一つの考え方としてもっと読まれるべき。
自分の生命とは何かということや、自分が一生を通してどのような形で人類に貢献できるのか、ということを考えたり、それなりの考え方を持つことは大事だよなぁーと改めて思った。