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車輪の下 [鑑賞記録]


車輪の下 (新潮文庫)

車輪の下 (新潮文庫)

  • 作者: ヘッセ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1951/11
  • メディア: 文庫



ヘルマン・ヘッセ著
高橋健二訳

日本でもっとも読まれているであろう、ヘッセの作品。
「車輪の下」という題だけは知っていたので、気にはなっていたのだが、読んだことはなかったので読んでみた。
以下、ネタバレを含むので注意。
・あらすじ

主人公のハンスは村の中では天才児というべき学才を見せ、15歳のときに州の国立神学校の入学試験をパスする。神学校の教育は詰め込みそのもので、過酷なものであった。当初はハンスはその勤勉さで優等生としての地位を欲しいままにする。しかし、天才肌で詩人を目指す同級生のハイルナーと仲良くなっていく過程でハンスは勉強に身が入らなくなっていく。ハイルナーは学校を脱走して放校処分になり、ついにはハンスも精神を病んで村に返されてしまう。
村に返されたハンスはしばらく自宅療養をした後、機械工になるべく村の工場に行くようになるが、そんな生活も長くない間にある日大酒を飲んで、川に落ちて死ぬ。

・感想

ー悲惨すぎるストーリーー

始めは、学者の道が閉ざされたからといって、その後にはまた別の人生があるのだろうと思いながらどうなるのかわくわくしながら読んでいた。しかし、そうではなくて、村に帰ったハンスは川に落ちて死んでしまった。それも、事故で死んだのか、自分の境遇を呪って自ら命を絶ったのかはわからず終い。なんと救いのない話だろうかと思ってしまった。

この本の中では随所に教師というものへの痛烈な批判が見られ、ヘッセ自身が当時の教育に対して批判的であったことがよくわかるのだが、それを言いたいがために、そんなに悲惨なストーリーを書くものかなぁと思った。


ー車輪の下ー

この本の「車輪の下」という題は、「車輪の下に」や「車輪の下で」といった訳題もある。車輪というのは、神学校での厳しい学業のことである。一瞬でも気を緩めたら車輪からこぼれおちて、その下敷きになってしまう。このことは、作品中で校長先生がハンスを呼び出して話をするときに出る、校長の言葉である。

多感な時期の青年を、教育が踏みにじる。そういった教育への批判をこめた題と言える。


ー自叙伝として読むー

少しこの本について調べて見ると、この本はヘッセ自身の自叙伝的な小説であるということがわかった。
ヘッセ自身が精神を病んで神学校を途中でやめているのである。
(ちなみに、当時神学校にいくというのは、その後の人生が約束される、相当なエリートコースだったということを書き忘れてはいけないと思う。)
つまり、ヘッセはエリートコースからドロップアウトし、その後詩人となって文学に生きたということである。

ヘッセの、神学校に通っていたころからの詩人願望が小説の中ではハイルナーというハンスとはまた違った別人格として表現されている。新学校でハンスとハイルナーが互いに求め合いながらも、ハンスが友人とすごすために勉強時間を確保できないことに悩む様などは、ヘッセ自身がエリートコースにいる自分と、詩の世界に身を置きたい自分との葛藤があったことを表している。

ハイルナーは学校を放校処分になったあと、それなりに立派にやっていった、と少しだけ書いてある一方で、村に帰ったハンスのほうは悲惨であった。

ヘッセは作中でハンスが象徴している「自分の勉学に励む自分」という人格を、小説内では殺してしまったのだが、実際のところ、ヘッセがどう思っていたのかはわからない。そもそも、ハンスが死んだというのが、小説上の演出なのか、ヘッセ自身の心をペンに起こしているのかわからないからである。

もしも、ヘッセの心を作品に出しているのだとしたら、ヘッセは、15歳のときには確かに思い描いていた、学問を修めるという目標を自己実現の像に描いていた自分というものを、あるときに自分の中で殺してしまったということなのだろうと思う。理想と現実のギャップがもはや埋めることができる程度ではないと感じてしまったとき、ヘッセはその目標を、それに向かって努力してきた自分というアイデンティティとともに消してしまったということだろうか。
もしそうなのだとしたら、相当苦しんだんだろうなぁ。

ただ、ハンスには母親がおらず、ヘッセには母親がいて、そのおかげでヘッセは立ち直ることができたのだという言説を見かけた。
教育批判の小説にしたかったから、あえて母親を登場させず、ハンスを殺したっていうことなんだろうか。このあたりは考えすぎると良くわからなくなってしまう。


ー院試前の自分にとってはー

この本を読んだのは実は院試の直前であった。というか数学の試験の前日に眠れなくなって読んでいるうちに読破してしまった。
そのタイミングで、上級学校に進んでついていけなくなってしまうという「車輪の下」を読んだことは、なかなかに気分が沈む出来事であったことには間違いない。というか、読んだあとはほとんど絶句状態で(とはいえどうせ一人部屋なので元々黙っているのだけれど)、「なんの救いもねーな!」という感じだった。
そのあとあとがきを読んだりして上にかいたようなことを一つ一つ納得していくのではあるが、この作品は自分に大きな衝撃をくれた。

ただ、ハンスは車輪の下敷きにされて結局死んでしまったけれども、可能性はそれだけではないということを忘れてはいけない。
車輪は自分がたとえ力が弱くても回ってくれるのだから、何とかしがみつけば遠くまで連れて行ってくれる。物は考え様、とはこのことで、自分では進んでいるのかわからなくても、必死についていけば、着実に前進しているという環境がありがたいこともある。だからこそ、自分自身はなんとか車輪にしがみついて前に進んできたし、これからも踏ん張っていければと思う(もっとも大学院生がそのような姿勢でいいのかは疑問だけれども)。


もうひとつは、自分の今の家庭教師という仕事柄、教育的な側面について。
教職を志半ばで辞めた自分が教育うんぬん言うのはそれだけでも気が引けるのだけど、それでも書くとしたら、やはり教育の根本は世界の広さを知りつつ、自己効力感を感じさせて、一つの人格が自己実現をできるようにすることにあると思うので、一方的な詰め込み教育は決して良くないと思う。その点では、ヘッセの主張には同意できる。でも「詰め込み=悪」かというとそうではないとも思えなくて、こちらでペースを組んであげるのが大事な時期もある。結局は車輪からこぼれそうな子どもをどうフォローしていけるか、っていう話になるんだと思う。

ヘッセは詰め込み教育を痛烈に批判しているけれど、それはきっとこの当時の教育を見ていっているのであって、現代日本の教育をヘッセが見たらなんというか・・それはちょっと楽しみ笑


そして最後に
やっぱりドイツ文学はいいわ。ファウスト読んだときも思ったけど、ドイツ語ってなんか描写の言い回しが絶妙な気がする。
日本語訳でしか読めてないのが本当に残念。こんなことなら第二外国語はドイツ語にすればよかった。韓国語は韓国語で楽しかったけど。。
ドイツ語勉強したって遅くはないんだろうけど、いかんせん英語すらままなってないからなぁ。。しばらくはまだ日本語ですね(ぁ
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